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■五月人形 昨今

三浦一郎

(財)日本甲冑武具研究保存会 会誌 甲冑武具研究130号より転載

 小生は人形屋の伜として生まれ、端午の節句が近づくと、父が飾る五月人形を見て育った。これが直接の原因となって、甲冑研究の泥沼にはまってしまったのである。父は時々、子供の小生にも鎧や兜を飾らせてくれた。そんな頃から、鎧や兜に触れると胸がときめいたものである。それに小生が飾った五月人形はよく売れた。それは、人よりもかっこよく飾ろうとしたからだと思う。

 五月人形に触れながら、「どうやって着たのだろう?」とか「何で作ってあるのだろう?」とか疑問は尽きず、何度も返す返す見ていたことを思い出す。血気盛んな思春期を迎えると、五月人形では飽き足らず、実物へと興味が移っていった。「本物の鎧はどうなっているのだろう?」と、近所の徳川美術館へよく通ったものである。家族旅行のときも、一人で甲冑の前にじっと立っていると、「イチロー」と大声で母に呼ばれ、ふと我に返ったことを覚えている。

 高校卒業後は家業を継いだ。五月人形の買い付けでは、父といろいろなメーカーを尋ねて回った。そして、甲冑の研究が進めば進むほど、小生の気に入る五月人形が無くなっていった。五月人形を売るためと思っていたが、皮肉にも反比例状態へと陥っていった。その後、運命的ともいえる佐藤敏夫先生(甲冑師)との出会いがあり、すぐに弟子入りを決意した。先生の懸命な指導のもと、漸く甲冑の骨格が見えてきた。その頃になると、五月人形を見るのも嫌になっていた。先生流にものを言うなら「五月人形、ありゃ化物だ!」。

 一般の人が、甲冑を一番身近に感じるのは五月人形であろう。我が子、我が孫の健全なる成長への祈りを込めて、何十万円もの買い物をするである。「最近のお客さんはよく勉強している」と、ある人形屋さんに言われたことがある。しかし、これは当然のことである。何十万円もする電化製品でも買うのであれば、誰もが各メーカーのカタログを取り寄せて大いに検討する。これに同じく五月人形を買おうとするお客さんも、それなりの勉強をするのは当然である。一抹の不安を抱えたお客さんが投げかけられる素朴な質問に、人形屋さんはどこまで答えられるであろうか。因に、八幡座の穴の意味を正しく説明できる人形屋さんは、全国に何軒あるであろう。そして、一般の人の甲冑に対する認識を左右するのもの、この五月人形なのである。もっと拡大して言えば、日本文化を正しく継承できるか、できないかがかかっているのである。こうした使命感を互いに自覚したいものである。

 五月人形のブランドとして「京甲冑」と呼ばれるものがある。その大本は、春日大社蔵の紅糸威梅金物大鎧(国宝)と思われるが、大凡のモデルとなったのは復古調期の大鎧であろう。波状にプレスされた鉄板やアルミ板に金箔を押し、朱色の糸で威すお決まりのパターンである。兜には必ず木彫やアンチの竜頭を掲げ、鍬形には羽毛の毛彫りが見られる。金具廻りを見れば、知ってか知らずか、伏組状に何重にも蛇腹伏が見られる。草摺を四間とする以上は大鎧であろうが、脇楯が見られず一続きになっている。当世具足のように揺糸が長く取られ、弦走韋がない替わりに、乳鐶を打ち総角を下げる。

 さらに、五月人形の高級品として「総裏」という言葉がある。これは、前述のプレス板の裏に、さらに一枚の鉄板(もしくはプラスチック板)を合わせたものであり、金白檀状に塗られている。表を金箔押しとして裏を白檀に塗ることは、江戸期の大名物によく見られる。これはこれとして、小札板の裏を平にするということは、すなわち当世小札を意味しているのであろうか。本小札に対してみるなら、わざわざ手間をかけて一ランク評価を下げていると言わざるを得ない。同じように「合鉢」という言葉がある。星兜や筋兜であれば、矧板を合わせて兜鉢を作るのは当然のことである。なぜ、それを強調した言葉が発生したかというと、一枚の鉄板をプレスで絞った一枚張の鉢に対抗したのである。この類いのものの中には星までプレスで出したものもあり、これを「合鉢」に対抗して「一枚物」と称している。

 「五月人形は、あくまで五月人形であって、真の甲冑のようにはなっていない」と、よく先輩の人形屋さんに言われたものである。これは当然のことである。どれもこれも真の甲冑のように作る必要はないし、それは土台無理な話である。だからといって、すべてがそれで済まされるとは思わない。まがりにも甲冑を知る者であれば、真と掛け離れたものを「良い物だ!」と言ってお客さんの薦めることは、心が咎めてできないものである。精一杯甲冑がどういうものかを説明して、それでも「これがいい」とお客さんが言われれば、人それぞれであるから仕方がない。過去に小生は、売り場でほとほと困ったことがある。それは、「甲冑をどのようにして着るのか?」というお客さんの質問に答えられなかったからである。小生は、説明に困り果てたあげく、前述のとおり「五月人形は、あくまで五月人形であって、真の甲冑のようにはなっていない」と発していたのである。瞬時に強い憤りを感じると共に、この言葉の持つ意味にも気が付いた。それは、真の甲冑を知らない人形屋さんの逃げ口上なのである。まさに、不勉強な人形屋さんの発する無責任極まりない言葉だと気が付いたのである。さらには「現代風アレンジ」などと、その上をいく逃げ口上も耳にしたことがある。そこまで言われると、かえって何も言う気がおきない。ただただ脱力感と倦怠感に陥るのみである。

 五月人形の接客中、よく「どういうものが良いものですか?」と聴かれる。小生は、デパートで同じ質問をしたことがある。店員は、しきりに作者やメーカーを強調する。しかし、それは真に作品を理解していないことになる。同じ作者の作品でも既製品もあれば特別注文のものもある。作者が同じだからといって、その作品を同等に評価するのは誤りである。では、質問にどのように答えるか。小生であれば、「本物が一番良いもの」と答える。これには大抵のお客さんに納得いただける。次に「そうであるなら、本物に近いものほど良いものではないか」と付け加える。作者に良質の作品を作らせるか、作らせないかは、プロデューサーである人形屋さんの甲冑に対する知識の有無にかかっている。

 ある人形屋さんを尋ねたときのことである。店員が的の外れた説明をしはじめた。この現物が瀬戸内海の有名な島にあるというが、島の名前が出てこない。「大三島ですか?」と反対に尋ねる。店員は大きく頷くが、今度は神社の名前が出てこない。「大山祇神社ですか?」と再び尋ねる。またもや店員が大きく頷く。しかし、そのものは櫛引八幡宮蔵の白糸妻取大鎧(国宝)を模したものだった。まさに笑うに笑えぬ話である。このように現物を模すという傾向がメーカー側にも高まりつつある。しかし、その多くは見るに忍びないものと言わざるを得ない。前述した櫛引八幡宮の白糸妻取大鎧の模写などは、小札のピッチが御岳神社蔵の赤糸威大鎧(国宝)なみであるから、妻取に威すと大袖の一の板の半分が色糸部分となり、何とも見苦しい威毛なる。

 小生は、このやりきれぬ思いを佐藤先生に相談した。すると、先生は旧友の話しをしてくれた。その旧友こそが、先代加藤一冑氏であった。そして、住所を教えてくれた。当時、名古屋で加藤一冑(二代目)氏の作品を見るにはデパートぐらいしかなかった。早速出掛けて、五月人形売り場を覗いてみた。二分の一、三分の一、四分の一サイズの兜を中心に陳列してある。一般のものから思えば、かなり小振りである。よくよく見れば、兜鉢、シコロ、絵韋、金物など鉄則どおりに作られている。作品を一つ一つ確認していくうちに、大いに仰天する光景を目にした。それは、大山祇神社蔵の赤糸威胴丸鎧(国宝)をモデルにした作品が、前後を逆さに飾られていたからである。恐らく、総角などの房類が多い方を正面と勘違いしたのだろう。ここまでの出来のものをこのように飾るとは、何とも口惜しい限りである。店員を呼び付けて訳を話したが、いっこうに理解できないらしい。次にその上司が来た。小生の言うことに、上司が赤面して礼を言った。このようなことは、毎年デパートの売り場で大なり小なり見かける。

 小生は、加藤一冑氏を尋ねることにした。東京駅に着く。約束までかなり時間がある。一寸銀座のデパートでも覗いていこうと、五月人形を見ていた。そこで、偶然にも加藤一冑氏の弟である加藤鞆美氏と出会ったのである。加藤鞆美とは、この先長くお付き合いをさせていただくことになる。並べられた半製品の数々を、心をときめかせながら拝見したことを覚えている。名刺を交わして子細を話し、加藤一冑氏からいただいた葉書を見せると、ご自宅までの道程を詳しく教えていただけた。

 東京都文京区の加藤一冑氏のご自宅に着いたのは、正午を少し回ったころだった。先代の奥さんに応接間へと案内された。ガラスケースの中に等身大の御岳神社蔵の赤糸威大鎧の兜を模した半製品と室町中期頃のものを模した小振りの黒韋威胴丸の完成品が置かれていた。加藤一冑氏が戦国期から安土桃山期にかけて流行した兜を模した豆兜を沢山見せてくれた。小生が、作品購入の旨を話すと、上野にある代理店を紹介してくれた。  翌日、早々に上野に向かった。店内に入って、まず目を引いたのは御岳神社蔵の赤糸威大鎧を模した二分の一サイズの作品だった。いかに精巧に模してあるかを示すかのように作品の横に置かれた図鑑は実物のページが開いてあった。その時、小生の望むものは「これだ!」と思った。このようにして五月人形を陳列してみたい。その思いが募る中で、時が経つのも忘れて作品に見入った。

 結果的には、特約店契約があるため、この代理店からも直接購入することはできなかった。落胆する小生は、銀座のデパートでいただいた名刺を取り出して、加藤鞆美氏に相談を持ちかけた。加藤鞆美氏には、すんなりと小生の要望を聞き入れていただけた。

 そして、再び上京の途に着く。東京都文京区のご自宅を前に鼓動が高まる。大きく深呼吸をしてチャイムを押した。ご夫婦揃って出迎えていただき、リビングルームへと案内された。そのほとんどが甲冑談義の中で商談は成立。このとき購入した一頭を櫃に入れ、喜び勇んで持ち帰ったことをはっきりと覚えている。それは、二分の一サイズの兜だった。一枚張筋伏の兜鉢は前後に銀に地板を伏せ、前三条、後二条の篠垂を構える。四段下がりの杉形ジコロを朱糸で威し、厳島神社蔵の浅葱綾威大鎧(国宝)に付く兜の長鍬形を打ったもので、最も一般的な既製品だった。それでも、杉形ジコロの兜には長鍬形でなければならないという鉄則が適えられただけでも満足していいた。

 一年目、二年目と加藤鞆美氏の作品はよく売れた。このころから、次第に小生の本性が現れてきた。いろいろな部品を拝見していく内に、全国の名甲、名冑の模写の製作を注文するようになったのである。これは、小生が上野で見た理想の売り場だった。どんなに難しい注文にも加藤鞆美氏は必ず応えてくれた。新しいものを作るときには激論を交わしたこともあった。一寸でも落ち度がある作品は、何度も東京と名古屋の間を往復した。今思い起こせば、本当にいろいろと良いものを作っていただいた。そこには、加藤鞆美氏の職人としての誇りがあり、小生への代え難い理解があったと信じている。

 厳島神社蔵の浅葱綾威大鎧(国宝)を二分の一サイズ(糸威)で注文した。弦走と吹返には不動韋を用い、長側五段、白金物でお願いした。このとき、五月人形で白金物というのに、加藤鞆美氏が少々の懸念を示された。しかし、小生は意見を曲げなかった。それは、実物どおりに作れば、必ず最良のものができると確信していたからである。やはり、その出来栄えは素晴らしいものだった。早速、銀箔押しで山水の水墨画を描いた屏風を仕入れて飾ってみた。かの大鎧を手元に置かれた明治天皇のお気持ちを察するに値する最良の作品となった。同業者の番頭が何度も売り場を覗きに来た。そして、この年の見本市に白金物の鎧が飾られていた。それを見るや否や、小生は思わず絶句した。小札板まで銀で、おまけに濃い萌黄糸威ときている。何とも言いようもなく、その場を立ち去ったのを覚えている。言うまでもなく、次の年の見本市でその鎧を見ることはなかった。

 米国メトロポリタン美術館蔵(篠村八幡宮旧蔵)の伝足利尊氏所用の総覆輪筋兜を二分の一サイズで注文した。兜鉢の前後に金の地板を伏せ、前三条、後二条の篠垂を構える。さらには桧垣に一点星を打ち、五段の笠ジコロは黒韋中白に威す。

 石清水八幡宮旧蔵の紺糸威星兜の復元模写を二分の一サイズで注文した。一枚張筋伏の兜鉢は前三条の篠垂と後二条の伏板に鍍金を施す。紺糸で整然と威された五段下がりの杉形ジコロは、上四段を吹返し花菱の書韋で包む。忍の緒は響穴から取る。清水寺蔵の鉄鍬形を付け、総体に鍍銀を施し、象嵌部分には鍍金を施す。

 春日大社旧蔵の片身替澤潟威星兜の復元模写を二分の一サイズで注文した。シコロの左右を紫と萌黄に威し分け、その中央に澤潟を入れる。その斬新な威毛の美しさに感銘はしたものの、左右不対象のものが一般のお客さんにに受け入れられるかどうか心配していた。しかし、あれよあれよと言う間に売れてしまった。これには小生も正直言って驚いた。

 水戸八幡宮蔵の阿古陀形総覆輪筋兜を二分の一サイズで注文した。黒韋威肩浅葱の威毛に浅葱糸の菱縫が実に渋くマッチしている。これに、失われた三つ鍬形を復元。当店の売れ口となった。さらに、この兜鉢を利用して鹿児島神宮蔵、源久寺蔵、毛利博物館蔵などの阿古陀形総覆輪筋兜も作っていただいた。中でも人気の作品が徳川美術館蔵の「家康の兜」である。縹糸を地に日の丸威の丸胴具足に付くもので、失われた鍬形を復元し、祓立には「三つ葉葵」の前立を掲げてみた。地元ということもあって、これを買われたお客さんの喜び勇む顔をよく見たものである。

 御岳神社蔵の赤糸威大鎧(国宝)を二分の一サイズで注文した。これは相当の気合を入れて作っていただいた。その出来栄えには誰もが共感を覚えた。このため、店看板として写真に撮っておこうと友人のカメラマンを頼んだ。数時間をかけての撮影の合間合間に、この作品の説明を説いて聞かせた。この年、偶然にもカメラマンに男の子が生まれた。どこをどう探しても、これ以上の五月人形はないと、自ら撮った作品を買っていただいた。

 櫛引八幡宮蔵の白糸妻取大鎧(国宝)を二分の一サイズで注文した。桐文の金物は鍍金で、他の金物は鍍銀でお願いした。もちろん鍬形などはなくていい。この作品が売れてしまったときには、言い知れぬ淋しささえ感じた。古色を再現した妻取の威に、格調高い気品を感じたのは小生だけではない。甲冑に興味があろうとなかろうと、その美しさには感銘を受けた。ここまでの作品であるなら、さらに完璧さを求めて、八幡座は腰高に、桧垣には二点の星を打ち、耳糸には亀甲打、化粧板には菖蒲を染め抜く。まさに欲とは尽きないものである。

 このように思い起こせばきりがなく、また、今後作っていただきたい作品にもきりがない。そして、今年初めて三分の一サイズで総覆輪筋兜を注文した。モデルにしたのは日御碕神社蔵の縹糸威肩白総覆輪筋兜(重文)である。さて、その鍬形であるが貫前神社蔵の尾長大鍬形を付けるようお願いした。実物は三尺近くあるので三分の一でも一尺近くになろうか。そうなると、既製の櫃には入らないかもしれない。小生の「おまかせします」の一言に、加藤鞆美氏が見せられた何とも言えぬ笑顔が印象的だった。

 近年になって団地やマンションと住宅事情の変化から、嵩の大きな五月人形はあまり好まれなくなった。それに、最近の若者は生活の空間を非常に大切にし、一つのインテリア感覚で五月人形を飾ろうとしている。その要望の多くがサイドボードの上に飾るというのである。このため五、六年前なら二分の一サイズのものが主流だったが、最近では三分の一サイズのものが主流となりつつある。それに、美的感覚に優れた若者が多くなった。匂威や裾濃を「美しい」と言い、黒韋威を「シック」だと言う。厳島神社蔵の浅葱綾威大鎧(国宝)は誰もが「清々しい」と言い、白糸妻取は「おしゃれ」だと言う。こうした若者のどこかに、潜在的に日本人が持つ美意識が備わっているのであろうか。

 小生は、この仕事を長年してきた。その中で一寸嬉しいことがあった。それは、嘗て日御碕神社蔵の白糸威大鎧(国宝)の兜を買っていただいたお客さんが、偶然にも東京国立博物館で現物を見られ、我が家の国宝だと言って大喜びされたと聞いたからである。時期でもないのに、押入の奥から取り出し、改めて良い買い物をしたと言っていただけたのである。

 平成九年五月、甲冑会に入ってはじめて総会に参加した。このとき、加藤一冑氏から丁重なる挨拶を受けた。懐かしくもあり嬉しくもあり、ついつい涙腺が緩んだ。今後ますます加藤ご兄弟が活躍されることを切に祈る。

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